空海ウォーカーズ・遣唐使船
◆歴史コラム・遣唐使船 最澄・空海と菅原道真◆
空海の生涯から時の宗教界や政治の様子がわかります。とは言っても私は相当古い映画、北大路欣也主演の「空海」でだいたいのイメージをつかみました。804年桓武天皇(丹波哲郎)の命で四船の遣唐使船が難波より出航された、空海は自費留学生として20年の予定で第一船に乗り込み、最澄(加藤剛)は九州田ノ浦で短期留学の予定で第二船に乗船しました。最澄はこの時すでに桓武天皇の内供奉(ないぐぶ)で位の高い法衣を身にまといたくさんの弟子に見送られました。桓武天皇は最澄に奈良仏教への対抗勢力として期待し送り出しました。ここで意外な人物も登場します、第二船の搭乗者に遣唐判官に任ぜられた菅原清公(伊藤達弘)が出てきます。
菅原道真のおじいさんで、ここに歴史上有名な最澄、空海、菅原道真の接点がありました。唐にたどり着いたのは空海・最澄を乗せた第1船と第2船だけであとの二艘は遭難しています。
菅原道真公は唐にわたるのを夢見ていましたが、894年宇多天皇より遣唐大使に任命されながら自ら遣唐使派遣の再検討を求め白紙に戻しました。理由は前回までは遭難したり盗賊に遭う事も多くありましたが、唐に渡ってからは危険ではありませんでした。しかし今や唐では内乱が起きていて唐に渡ってからも危険である。おじいさんの清公の時も四艘の内たどり着いたのは二艘でした、このうち一艘は行方不明になっています。この遣唐使派遣中止の判断は当たり、907年には唐は滅亡し五代十国時代に突入します。渡航していたらたどり着いても生きては帰れませんでした。優秀な人材を多数失う危険を回避したことはあまり知られていない功績の一つでしょう。
◆遍照金剛(へんじょうこんごう)◆
空海は唐では梵語を習得してから青龍寺に入り恵果阿闍梨に師事する。恵果和尚は自分の命がもう長くないのを知っていて、密教を空海に半年で伝授します。恵果和尚の最後の仕事は空海を通じて密教を西から東へ伝播させる事でした。伝法阿闍梨位の灌頂を受け遍照金剛の灌頂名を与えられます。20年の予定を切り上げこの密教を伝えるべく、たまたま唐の皇帝が変わって祝賀に来た遣唐使船の帰りに便乗します。ところが桓武天皇は崩御されていて、平城天皇は最澄がすでに密教も持ち帰っていると空海を冷遇し、大宰府に留めおきます。
◆復元された遣唐使船◆
復元された遣唐使船に乗船した時のブログです。↓
『遣唐使船!博多港入港』
804年、空海が遣唐使船に乗船した時フレンドリーに話しかけてきて友達になったのが橘逸勢、煩悩の塊のような男で、あけすけに貧乏貴族の末子なので出世するには危険を冒して遣唐使船に乗るしかないと言う。航海中は船酔いで空海に介抱してもらい、嵐に遭い遭難しそうな時に空海に祈祷してもらい難を逃れる。空海を乗せた第1船は航路を外れて福州に着き、海賊と嫌疑がかけられるが中国語が堪能な空海は遣唐大使の代わりに福州の長官への嘆願書を提出し難を逃れる。漂着してから長安にたどり着くまで四か月以上もかかっています。橘逸勢は中国語が苦手な事もあり空海に助けてもらいながら行動を共にします。長安に着くと空海は梵語を習得した上で満を持して青龍寺の恵果和尚を訪ねます。恵果和尚はこの東方からきた空海を密教を引き継ぐ男と定めて自分の命が燃え尽きるまで伝授します。
空海は密教を猛勉強で習得した為、予定を大幅に切り上げ予定外に入港した遣唐使船の帰りに乗船し帰国する事にしました。橘逸勢もこれに便乗し806年に帰国します。その後は但馬権守を務めたり静かに暮らしていた。日本の書道史上の三筆、空海・橘逸勢・嵯峨天皇に名を連ねています。嵯峨上皇が崩御した際に謀反の企てありとして捕らえられ拷問を受けました。流罪となり伊豆への護送中に亡くなりました。
京都に上御霊神社がありますが、怨霊となった8柱が祀られています。早良親王、吉備真備、菅原道真、伊予親王、藤原吉子、井上大皇后、他戸親王(おさべしんのう)等々のそうそうたるメンバーの中に橘逸勢も入っています。吉備真備は左遷はされた事はありますが憤死はしていません。
四国おへんろに挑戦します、もっとも一度には無理ですのでちょこちょこ行って日帰りか1~2泊くらいで順番を考えずに現地では歩いて回りたいと思います。ですのでブログも途切れ途切れに更新しますが、さて満願はいつになるやらわかりません。
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