空海ウォーカーズ8番・熊谷寺
◆歴史コラム・恵果和尚◆
空海は密教を学ぶ為に804年に遣唐使船に乗り、嵐に合い漂流し正規のルートではない福州に到着しますが一行は現地で怪しまれ上陸を拒まれます。遣唐使を証明する印符は最澄達が乗っている第二船にあり、遣唐大使の藤原葛野麻呂(ふじわらのかどのまろ)の文章では拙く許可が下りず、空海が代わりに文章を書くと、福州の地方長官は格調高い文章に驚きすぐさま入国の許可を出します。ここから川を渡り山を越え長い道のりで長安に入ります。最初に空海は西明寺に入ります、ここでは滞在歴30年で空海と入れ替わりで帰国した永忠の部屋を割り当てられます。永忠は最澄とも親しくして空海より先に最澄と共に帰国します。空海は梵語を勉強しながら4ヶ月をここで過ごしています。この時点では青竜寺の恵果和尚とは接点はなかったようです。
空海は寺々を歴訪中に恵果和尚に出合い、西明寺の恵果和尚の知人に紹介され青竜寺を訪問します。恵果和尚は空海が来るのを待ちわびていて、すぐに密教の全てを空海に伝えると告げました。ここから三ヶ月で胎蔵界の灌頂、金剛界の灌頂、伝法阿闍梨の灌頂を授けます。ここでかの有名な「遍照金剛」の灌頂名も与えられました。恵果は密教の曼陀羅や法具を作り空海に授けます。恵果和尚は自分の高弟ではなく日本から来た空海と言う一留学生に密教を全て伝え正当な継承者としました。恵果和尚はこの伝法阿闍梨の灌頂より四ヶ月後に亡くなりました。
ちなみに空海に助けられた藤原葛野麻呂は帰国後は出世を重ねて、平城天皇の側近として活躍する。平城上皇の薬子の乱には藤原薬子の縁戚であり重罪とされたが挙兵を思いとどまるように諫言したことを評価されて無罪となりました。桓武天皇、平城天皇、嵯峨天皇と政局が変わっていく中で常に政局の中心にいるという離れ業を演じています。もし空海が第一船に乗り合わせていなかったら福州で立ち往生して日本に帰されたか、処刑されていたかもしれません。
◆◆謎解き・空海と恵果の因果関係◆◆
恵果和尚がなぜ正当な弟子ではない客分とも言える空海に全てを託したのかは謎です。長安での噂を聞きつけ、天の啓示を受けたのか、もしかしたら空海が遣唐使船に乗る以前に民間船で密航していて面識があったのか・・・空海が二年で帰国したのは早く密教を伝えたかった事と、あまりに栄誉な対応を受け謝礼として散財し20年分の生活費を削ってしまったからかもしれません。青竜寺は唐末期の動乱時に消滅してしまいます。20世紀後半より遺跡が発掘されて復興されます。恵果和尚はなにかの予知能力があって未来予想し外国人である空海に全てを託したのかもしれません、信じるか信じないかあなた次第です。
ジョンデンバーの名曲、カントリーロードが似合うような道筋でした。ここから8番熊谷寺(くまだにじ)に向かいます。
Country roads, take me home 故郷の道よ、僕を家まで連れてってよ
To the place I belong, 僕がいたあの場所へ
West Virginia, mountain mamma, ウェストバージニア 母なる山
Take me home, country roads 僕を家まで連れてって故郷の道よ
グーグルマップは電池も消耗するしあまり使いたくないので案内板や表札があれば助かります。
この仁王門は1687年長意上人によって建てられたました。四国霊場最大の山門で間口は9m高さは12.3mで徳島県の指定文化財になっています。
誰の作品かは知りませんが慶派様式の吽形です。まだ色が残っていて、桜の咲く頃に行けば抜群に綺麗でしょう。
向かって右側の阿形
納経所の近くに見事に綺麗に咲いた藤棚がありました。
1774年建立、四国で最大・最古の多宝塔。内部には大日如来像・四方に如来像が安置されている。
中門(二天門)には持国天と多聞天が両脇に立っています。
持国天・多聞天、色は完全に残っていて最近の作と思われます、とてもハンサムな仏像でした。
剛意上人が建立した200年程前の二重の塔
本堂前で
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