空海ウォーカーズ9番・法輪寺

空海が開基したお寺ですが天正年間に長宗我部の兵火に遭い全焼、現在地に再建されるも安政六年に失火で再び全焼、現在の堂宇は明治時代に再建されたものです。


◆歴史コラム・長宗我部の一領具足◆


長宗我部元親は四国全土を支配下に治めるも秀吉による四国討伐により降伏し土佐一国のみを安堵されました。秀吉に臣従した元親は九州征伐に従軍しますが嫡男信親が討死します。


元親は信親の代わりに四男の盛親を後継者とします。盛親は元親の死後家督を継ぎますが関ヶ原の戦いでは西軍につきました。徳川方に内応するつもりで積極的には戦闘には参加せず退却します。戦後処理ではお家騒動もあり家康の怒りを買い領地を没収され改易されます。


牢人となった盛親は大坂の陣では大坂方につき真田信繁達と牢人五人衆として活躍します。藤堂軍を破るなどの活躍でお家再興を目論みますが叶わず斬首されます。お遍路をしていると寺が長宗我部の兵火で焼かれたという記述が多いのですが四国平定の時と推測されます。

密教系のお寺を焼くと祟りがあるのでしょうか巨大な星が消滅してブラックホールになるように歴史より長宗我部は消え去ります。


一領具足とは長宗我部軍で戦の時だけ戦闘に駆けつける農民の事です。替えの具足が無く一領しか具足が無いのでそう呼ばれたとも言われています。薩摩では外城制があり多くの半農半士の武士集団がありました、私の家系は鹿児島出身で家には明治時代の戸籍謄本が残っています。身分は士族となっていますがなんのことはありません、当時の鹿児島では四分の一が身分は士族だったそうです。幕末で言えば毛利の騎兵隊が農民より徴集され活躍しました。


戦闘時以外は農民として働いているので体は丈夫で健康な戦闘員として最前線にたち活躍しました。この時代は兵農分離が進み専業武士が一般的になっていました。長宗我部が土佐を去った後には山内家が入りますが一領具足に手を焼きます。だいぶ前の大河ドラマでは史実かどうかは分かりませんが、山内一豊が土佐入国後に相撲大会と銘打って一領具足の力自慢を集めて一網打尽に銃でうち殺します。


その後も一領具足の反乱に手を焼いた山内家は山内家の藩士を上士とし、その下部組織として一領具足を郷士として取り込みました。坂本龍馬は豪商の才谷家からの分家で郷士に召し出された家系です。商家ですが郷士であり、父の血統上は白札郷士(上士扱い)です。武市瑞山は先祖が豪農から郷士に取り立てられています。


白札郷士である武市は土佐勤王党を起こし1863年の政変があるまで土佐の政局を勤王で統一しました。郷士である坂本龍馬は脱藩の末に亀山社中の結成や薩長同盟の成立に協力して活躍しました。薩長同盟については坂本龍馬だけの手柄ではなく、先行して福岡藩が中心で進めていたが藩論が変わり筑前勤王党が粛清されました。ちなみに岩崎弥太郎は先祖が郷士の資格を売った地下浪人です。


まとめますと後藤象二郎・上士、武市瑞山・郷士(白札)、坂本龍馬・郷士、岡田以蔵・郷士、岩崎弥太郎・地下浪人、この他にも複雑な身分制度がありましたが土佐は長宗我部家の一領具足が基になる郷士と土佐に入る前からの山内家の家臣である上士の二重構造となっていました。


空海が白蛇を見つけて、白蛇は仏の使いと言われていることから釈迦涅槃像を彫像し法輪寺を開基しました。秘仏であり数年に一度しか開帳されません。この法輪寺は長宗我部の兵火で焼かれ、現在地で再建されました。更には幕末に浄瑠璃芝居の稽古中に堂内から出火し再び鐘楼堂を残し全焼しました。現在の堂宇は明治期に再建されたものです。


山門の中の金剛力士像、阿形・・


同じく吽形・・


なぜだかよくわかりませんが本堂には丸に十文字島津家の家紋の幔幕が張られていました。


大師堂にも五三の桐と巴紋が重なった家紋がありこれもどちらの家紋か分かりませんでした。


山門の境内側に柔らかい素材で作られたお地蔵様がいました。


空海ウォーカーズ

お遍路を通じて空海の足跡をたどり実像に迫ります。

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